展示

地図を読む  −近世の日本図と世界図−

場所: 本館(小阪キャンパス)1階ホ−ル
本館(小阪キャンパス)2階 閲覧室
期間: 2002年4-5月


【和蘭新譯地球全圖】

橋本宗吉
小川太左衛門他 寛政8(1796)年
1鋪:56×93cm
 享保年間以来、蘭学の発展にともないヨーロッパからもたらされた世界図をもとに、蘭学者によって多くの世界図が刊行されるようになる。 大阪の医師橋本宗吉(直政)が作成した本図は平射図法を用いた両球体図の周りに『隋書』、『三才図会』、『泰西輿地図説』(朽木昌綱)、『紅毛雑話』(森島中良)などに依拠する地誌的概説が配されている。 しかし、カリフォルニア半島が島として描かれ、オーストラリア大陸の形状が不分明になっていて、東西両半球体の嚆矢となった司馬江漢の「地球図」(寛政4年、1792)よりも、内容的には古い時期の世界図をもとに描かれている。

【三国通覧図説】

林子平 好井弘通 写 文化11(1814)年
18cm 別付:地図5枚
 三国とはこの書の場合、日本と国境が接する朝鮮・琉球・蝦夷を指し、記述のほぼ3分の2が蝦夷に関するものである。 日本の隣境にある朝鮮、琉球、蝦夷地の三国と、小笠原諸島の地図など、あわせと5枚付いている。
 長崎で得たロシアの南下政策が執筆動機で、蝦夷地の確保が日本のロシアによる植民地化防止になると考えた。 そこで子平はロシア人より先に蝦夷地を日本の領土にするために、蝦夷地を経済的に開発し、アイヌを教化し、日本人の蝦夷地観を改め、蝦夷を日本の国内とする認識を確立することが急務であると考えたのであった。 ここに子平の蝦夷地開発論、北方防備論の本質があるといえる。 そして「日本全図」のなかには、中国、ロシア、フランス、日本の地図情報が含まれており、そのことにより日本人の地理的視野を一挙に北方へ拡大したのである。
付図 ・”蝦夷之全図” 1枚;50×88cm
・”教国接壌之全図” 1枚;50×88cm

【南瞻部州 萬國掌菓之圖】

浪華子 文台軒宗平 宝永7(1710)年
地図1枚;117×144cm
 仏教の世界説で、世界の中心にそびえたつという須弥山の南方にある大陸で人間の住む世界のことを南瞻部州(なんせんぶしゅう)といい、本図は、板行の図としては最初の、かつ最も詳細な図として広く流布し、多くの通俗版・簡略版が本図を基にして後に刊行された。
 カブラ型の南瞻部州図に比べ左右の対称性はやや失われ、図の周辺には中国やインド以外の様々な地域が描かれている。 とりわけ北東部にはヨーロッパが群島状に描かれ、日本の北部や南部にも島がみられる。 作者の浪華子は、華厳寺の開祖鳳潭(ほうたん)の筆名であるといわれる。

【河内名所圖會】

秋里離島
皇都:出雲寺文治郎,高橋平助 享和元(1801)年 6冊 26cm
 数多い御陵や楠公ゆかりの旧跡、大坂冬の陣の古戦場、河内木綿、くらわんか舟をはじめ、祭礼・物産・風俗について詳しくつづっている。

【摂津名所図会】

竹原春朝齋図 秋里離島
江戸日本橋:須原屋茂兵衛 寛政8〜10(1796〜98)年 6冊 26cm
好井弘道写 文化11(1814)年
1枚;50×88cm

【拾芥抄】

洞院公賢編 洞院実熙補
吉川弘文館 明治39(1906)年 (有職故実叢書)
 主に朝廷、公家社会、京のことをまとめた辞典で、14世紀初頭に成立。 集録されている”行基図”には「大日本国図」という表題が付けられているが、 江戸時代以前にはこうした「行基図」が日本地図のスタンダードとして流布し、 江戸時代初頭まで日本地図としての命脈を保った。
 「行基図」とは下図のように、畿内中心に律令制の街道=七道を諸方へ線引きし、 そこに丸みをおびた国々をつないでいくかたちの日本図をいう。