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林 彦一教授 (人間科学部教養教育)


 当たり前のことだが、人間が良くならないと世の中・人生は良くならない。 つまり、すぐれた「人間性」、言い換えれば「人間らしさ」が求められる、ということだ。そして、「男らしさ」「女らしさ」「親らしさ」「子どもらしさ」「彼(彼女)らしさ」といったものがこの「人間らしさ」の内容を構成している(「教師らしさ」「政治家らしさ」「役人らしさ」「社長らしさ」という言葉がピンと来ないのは、教師・政治家・役人・社長は「人間」ではなく「職掌」「役柄」を指しているからであろう)。因みに、「らしさ」と「らしい」は違うので(接尾辞と助動詞)、これは、例えば「彼」については「彼らしい」「彼らしさ」と言えても、蔑称語の「あいつ」を使うと、「あいつらしい」は可能だが「あいつらしさ」は不自然である、ということから分るだろう。

「自分らしさ」というのがあるが、これはちょっと具合が悪い。「独りよがり」「独善」「自己愛」「自己中心」と直結するからだし、逆の「他人らしさ」というのがないからである。よほど「自分」を鍛えてから(良くしてから)なら「自分らしさ」も結構だが、そういう人はそれを「人間らしさ」と感ずるであろう。つまり「自分」も「他人」も含めた「人間」を感ずるので、云ってみれば「汝の敵を愛せ」・「自他融合」の境地である。

「人間性」とは頭でなく心、それも「考える心」のことである。だから、勉強ができる・知識があるということとは関係がない。寧ろ、天は二物を与えずのせいか、勉強ができ、知識のある人は人間性に欠けがちになるようである。しかし、一流と呼ばれるような人、例えばノ−ベル賞をもらうほどの人は両方を賦与されているようで、ちょうどこれを書き始めた日(9日)の朝刊に、小柴昌俊氏の受賞の記事が載ったが、「ビリで卒業」「大学院の筆記試験不合格」といった言葉が並ぶなか、面接で「意欲」を買われて合格したとか、「知識より意欲を重視する」というモット−がそれに当たろう——いや、この例は寧ろ知識はなかった例かもしれない——。

序に、昨年の受賞者・野依良治氏にご登場願おうか。 参照に使った本は下のブックリストのトップに挙げてあるが、 氏の最大の主張は「T字型人材のすすめ」である。 I字型が「コツコツ型の専門職やスペシャリスト」とすれば、 T字型は「一本筋を極めた上で、広い視野を備えた人」、 そして、「Iは多いがT はいない(少ないではなくいないである)」という主張である。

とここで話しを端折ってもいいのだが、あまりにもいい対話がつづくので続けることにする。野依氏はあとの方で、科学研究は今や「オ−ケストラ」、従ってコンダクター(指揮者)が必要になる、と仰る。それを受けて、対話者の河合隼雄氏が巧みに、「大抵のコンダクタ−は、楽器をきちんとできる人。 音楽が分かっていることは当然で、プラスXが備わっている」とT字型を示唆されたあと、プラスXを「その人が指揮台に立った時に、みんながやるぞって気分になるようなもの。それがプラスX。——それこそが感性だし人間的要因でしょう」と敷衍される。問う、先生方は教壇に立った時、学生たちをこういう気分にさせておられるか?と。

これだけではない。河合氏は先の野依氏の「科学研究は今は」と、「T字型人間の養成」を受けて、「人文科学でも社会科学でも同じ」から、「大学人の評価システムを根本的に考え直すべき」、と云われ、「63とか65で定年退職した人が、教養を教える。それを学生が評価する。面白くない場合は辞めていただく。一年契約でね」と説かれる。流石だ、と唸らざるをえない。普通なら「教養を教える」か「評価する」くらいで終わるところで、これだけでも、ホホウ!「教養」が出てきたか、と私など北叟笑むのだが、氏はきっちり「面白くない場合は辞めていただく。一年契約でね」とまで言い切られる。勿論、だいたいの教授、特に老教授の話しや講義、果ては「人間」が面白くないということを念頭に置いておられる上での発言だが、敢えて蛇足を挟めば、かくも長い間身近に見てきたのだから、教養がなくて面白くない人間かどうかは分るはず、一年契約などという前に最初から雇わなければスッキリする、ということになるか。更に言えば、60歳になっても面白い教授は教養があるのだから、河合氏ぐらいが音頭を取って、退職者の中で、我こそはと思われる方は××機関まで自己推薦・証拠書類を出されたし、といったことを企画されては如何か。なんなら、そのうち輩出?するであろう、その辺の経営難の大学を、こういう教授を集めて再建してみてはどうか。

もう少し辛抱いただこう。

野依− 先ほど多様性が大事だという話しがあった。横の多様性も重要だが、縦の多様性が大切。 若ければいいというだけじゃない。長老の経験も欠かせない。 二十代のバリバリの青臭い先生がいて、七十代の先生もいなければ。 それでフレキシビリテイー、価値観の多様性を持ちうるのではないか。今は教授になるのは四十五歳ぐらいで、ほとんど同世代。非常に年代の層が薄い。価値観が均一になってくる。それは面白くない。

河合−日本は民主主義だから、定年延長というと、 全部しろとなる。でも今まで平等で来たんだから、 せめてここからは不平等で行こうや、と。 今、米国では年齢制限をしてない。それだって評価に堪えないといけないから、甘い気持ちではできない。

アンダ−ライン部は勿論私に密接に——「ピッタリと」ではない——関係しているが故に施したものだが、 私としては、「青臭い」をもじって、「70代のバリバリの人間臭い」を追加し、 年齢制限に関しては慎ましくノーコメントと行こうか。

不思議なことに、この記事を書き始めた翌日も、ノ−ベル賞受賞の記事が出た。もちろん田中耕一氏のことだが、氏に纏わる以下の項目は、私の言う「人間性」に大いに関係している。

1)ノ−ベル賞受賞につきものの「博士」ではなく単なる「学士」。
2)同期には係長も課長もいるのに、下から3番目の「主任」にすぎない(私と同じ?)。
3)変人と言われている(これもまた私と同じ?)。
4)畑違いの分野の研究で成果を上げたのが、その理由は「専門知識があればそれにとらわれてしまう」とか。

以上、以下に示す書籍全般に通じる推薦事由を述べた。つまり、すべての書物が人間性に関係したものであるということである(目ぼしい特徴を簡単に付け加えておいた)。

[A]

1) 河合隼雄『いのちの対話』(潮出版社、2002・7・5)

2) 日高敏隆/阿部謹也『「まなびや」の行方』(黙出版、2001・2・26)
「分るということは自分が変わるということ。変わらなければ単に知ったということに過ぎない」「教養教育が大事。だいたい人を教育しようというのが幻想、況んや教養は与えるものでなく学生が自分でむもの。その相談に預かるのは優秀な教師でなければならない」「歴史教科書はどれも面白くないの が問題」

3) 浅羽通明『教養論ノート』(幻冬舎、2000・11・10)
これまでの殆どの哲学・思想が、日常の現実を否応なく共有している「他人」を繰り込めなかったのは何故か、という教養の根本を照射している。

4) 浅羽通明『大学で何を学ぶか』(幻冬舎、1996・5・20))
大学の先生方にとっては、現在の大学生にとってごく特殊な学問と知性という領域が、昔ながらに大学の「中心」である。教養とは、世の中の全体——特に会社という世間——にとっての大学、というとらえ方をすることである。

5) 桜井よしこ『迷走日本の原点』(新潮社、2001・4・20))
自立的日本人をつくる、つまり、自分が自分ひとりで存在し、自分のためだけに生きているのではないという認識ができる日本人。

6) 新野哲也『頭がよくなる思想入門』(新潮社、2000・5・20))
真剣という境地に足を踏み入れたとき、世界がよく見えてくる。それが頭のよさである。而して、「真剣」とは、熱心や真面目とは本質的に違った何かである。

7) 七田真『奇跡の「右脳」革命』(三笠書房、2002・5・1)
 この書の、例えば「必ず英語が話せるようになる英語学習法」は、 同時通訳の神様と言われている國弘正雄氏の『英語の話し方』で説 かれていることとピタリと一致している。

8) 徳山二郎『「人間悪」に甘い日本』(麗澤大学出版局、2000・12・4)
 国といい、世界といい、民族といっても、要は「人間」一人一人の生きざまが大切。 日本人の価値観が自己中心的になり、 「自分に損か得か」で決めるようになった傾向を憂いている。

9) 新島正『ユ−モアについての43章』(潮文社、2002・5・31)
頭はいいが、愛情に薄いとか、秀才だが人格的にいけないとかよく言われる。 ほんとうは頭がいいことと人間的であることは一つにならねばならない。 それが教養であり、教養人は必ずユ−モアがある。

10) 保坂和志『生きる歓び』(新潮社、2000・7・30)
教養は普通の人間相手の生の世界だけでなく、動物や死にも関係してくる。

11) 鵜川昇『子供を喰う教師たち』(プレジデント社、1999・4・18)
「子供が楽しくなるような学校運営に知恵を絞ることこそ、教師のなすべきこと」 「教師は社会のせいにしてはいけない職業なのである。 どんな社会であろうと、どんな状況であろうと、教師としてのプロ意識を持ち、 子供のために働き続ける」「安易にカウンセラ−に頼ってはならない。 カウンセラーの努力によって個人的に問題が解決されても、 それだけでは真の解決にはならない。 社会的に解決されねばならない(学校全体の解決にはならないということ)」 「学年制度を取り払い、生徒が主体的に授業を選ぶようにし、 授業力も魅力もない教師の下には生徒が集まらないようになる」。

12) 出口汪『きのうと違う自分になりたい』(中経出版、1998・11・20)
「ロジック」という単なる思考法は、 実は「繰り返し」ということにすぎないもので、 その繰り返しに親しむ(繰り返しを見破る)ことにより 想像力と創造力が身につき(人間が変わり)、相手の立場で考え、 相手の価値観でものを見ることができ、 その人を深く理解することができるようになる。

13) ヘレン・E・フィッシャ−(吉田利子訳)『女の直感が男社会を覆す』(草思社、2000・6・28)
21世紀の情報化社会では、 女性的な資質——例えば、人間的な横の繋がりを重視するところ——が脚光を浴びる。

14) 笠原真澄『フツ−のはずなのに、どこかサエない男たち』草思社、2000・11・20)
「世の中にはサエない男が多い。 それは女にとって不幸(女が可哀相)、 だからサエル男になって欲しいという願いから書かれた。

15) 水上洋子『こんな男と暮らしてみたい』(角川文庫、1987・1・25)
「元気印」これが作者の姿。 80なっても少女っぽいお婆チャンという感じの人。 この本でも、丁々発止と威勢よく、 さわやかなユ−モアをまじえて読む人を元気づけてくれる。

[B] 新書

1) 佐藤幹夫『精神科医を精神分析する』(洋泉社新書、2002・7・22)
現役の有名精神科医の分析と診断名で、多くの困難を抱える人々が傷ついた。 その怒りから書かれた本。自立できず権威に弱い日本人への警告の書。

2) 勢古浩爾『まれに見るバカ』(洋泉社新書、2002・3・15)
「日本人は世界のなかでも、まれに見るバカ民族になった」 そして「これからはいままで以上に益々バカが増産されるであろう」という一大事。

3) 勢古浩爾『「自分の力」を信じる思想』(PHP新書、2001・9・28)
この「信じる」とは、著者によれば、自分の力の有無・大小に関係なく、 「自分の力で精一杯生きて死ぬ」信念、ということである。 「目の前のするべきことに、つねに全身で自分の力を使うことだけ」ということである。

尤も、勢古氏は、先の3)浅羽通明氏の言葉に少し当てはまるところがあるようで、 勢古氏の上のような言葉が、果たして、 「説得」だけで身につくものかどうか疑問は残るし、 氏が最後に言っている「もちろん自分は大事である。 しかし、自分だけが後生大事など、さもしい話ではないか。 人を大事にできるものだけが、自分を大事にできる」も、私の言葉では、 いいことを言っているが、「自分の力で精一杯生きて死ぬ」覚悟のできた人間だけが、 自分と同じように人も大事、 という人間性に到り付けるのだ、 となる(「さもしい」などといって分かってもらえると思うのは甘い、ということ)。

4) 中山治『「勝ち抜く大人」の勉強法』(洋泉社新書、2002・5・14) 
表題だけからは、何か人生の成功者になるための本のように聞こえるが、 そんな功利的な本ではなく、従来の勉強法ではダメ、 本当に自分を活かすための勉強法を説いている。

5) 中山治『子どもを伸ばす37のコツ』(洋泉社新書、2002・11・21)
これまでの教育書の多くは、単に抽象的な教育理念を語るか、 部分的な教育実践を説いたもので、 本書のように「子どもの全体像を踏まえたうえで、 具体的に教育のコツについて語ったものはなかった」という著者の言葉は正しいだろう。 ただ、英語の勉強に関する件は8割がたしか賛成できないが。

6) 中山治『日本人はなぜナメられるのか』(洋泉社新書、2001・1・25)
日本人論には3種類ある。自虐型、自己愛型、そして中山氏の「自己批判型」。前二者は日本人をダメにするが、批判型は強くする。 

7) 中山治『戦略思考ができない日本人』(ちくま新書、2001・7・20)
日本文明を根本から考え直そうとする本。 以下は私の言葉だが、戦略というと聞こえが悪いけれど、 正しい戦略なしに生き得ると考える方がおかしい(おめでたい)。 こういう人は平素はいい人かもしれないが、いざというときには信用できない。

8) 中山治『「生き方探し」の勉強法』(ちくま新書、2002・4・20)
「生き方探し」とは、 若者の「自分探し」と中高年の「生きがい探し」の意味を持つとか。 目配りが行き届いている本である。

9) 大嶋仁『ユダヤ人の思考法』(ちくま新書、1999・8・20)
人間の動物性が生命エネルギ−、そしてここでもまた、 「日本人が他者を発見できるようになるには、 まずおのれを知ることである」という「他者」が来ている。

10) 橋本治『「わからない」という方法』(集英社新書、2001・8・25、第6刷)
 ひねくれたタイトルだけに「わかりにくい」だろうが、なかなかの本である。柔らかな文体に、「挫折」「へんな人間」など意表をつく言葉のあと、「教師における優秀とは、ただ一つ、生徒への対応能力である。出身校の別でもないし、知識の多さでもない」。そして「時間をかけて我が身に刻む」と「さっさと脳に記憶させる」という見事な言い回し(だから脳の分った、は頼りないのだ)、つまり「暗記」は「脳」の仕事で、「知性する身体」「身体の記憶」というわからない方法が大事。因みに、「英会話」の学習は身体の記憶にならなければならない。