展示

与謝野晶子と鉄幹   〜私の言葉で私の思想を〜

場所:大学図書館
期間:1994年2月


【与謝野晶子】

明治11年−昭和17年(1878-1942)歌人、詩人。堺生れ。 菓子商駿河屋の凰宗七の三女。 本名は、しょう。 堺女学校卒。 少女時代から古典に親しみ、一方「しからみ草紙」などを通じて 新時代の文学に目を開いていった。 明治32年鳳小舟(ショウシュウ)の名で「よしあし草」に詩歌を発表。 翌年東京新詩社の社友となり「明星」に短歌を発表。 34年、妻と離別した与謝野鉄幹(寛)と結婚する。 「明星」を代表する歌人として活躍。 鳳晶子名による唯一の歌集『みだれ髪』(明43)は、 旧派の歌風を打破し確かな近代を告げた画期的な歌集である。 日露戦争に参加した弟の無事を祈った詩編「君死にたまふことなかれ」(「明星」明37)はすぐれた反戦詩として有名。 『源氏物語』の現代語訳を完成し、一方では文化学院の創設に参加、 芸術教育の実践にたずさわった。 ほかに歌集『小扇』(明37)『白桜集』など。

【与謝野寛】

明治6年−昭和10年(1873-1935)歌人。京都岡崎生れ。 号は霊美玉廼舎(クシミタマノヤ)、鉄雪道人、鉄幹など。 鉄幹の号は明治38年に廃した。 明治25年上京、落合直文門下となる。 翌年直文を中心としてあさ香社を結び、新派和歌運動を展開、 27年歌論『亡国の音』を発表。 32年東京新詩社を創立、翌年「明星」を創刊し、 妻与謝野晶子と共に浪漫主義運動を華麗に推進、 北原白秋など多くの俊秀を世に送った。 著に詩歌論『東西南北』(明29)など多数。

(『新潮日本人名辞典』)

【明星】

東京新詩社の機関誌として明治33年に創刊された。 浪漫主義文学運動の中軸となって、 石川啄木・北原白秋・木下杢太郎・高村光太郎・吉井勇などの歌人を育てたが、明治42年11月号百号を以て廃刊した。

◇『みだれ髪』  東京新詩社・伊藤文友館 明治34(初版)

 言わずと知れた晶子の処女歌集で、短歌が、 まだ「和歌」とか「敷島の道」などとよばれて、 花鳥風詠をこととするものという観念が色濃くのこっていた明治の半ば、 大阪は堺出身の無名の少女、鳳晶子が世に問うて、 一世を驚倒させた歌集である。 なぜならばそれは、恋愛の自由を謳歌し、 肉体の美を讃える歌で埋めつくされていたからである。
 この歌集の初版本はまだ旧姓で出しているが、 三版からは「与謝野晶子」となっている。 表紙については 「恋愛の矢のハートを射たるにして矢の根より吹き出でたる花は詩を意味せるなり」 と巻頭に説明してある。 そういうデザインの面からも旧来の殻を破る大胆なものであった。
(『情熱の歌人「与謝野晶子展」』)
藤島武二装幀・挿絵

◇『恋衣』   本郷書院 明治38(初版)

 晶子と共に「明星」の三才媛と称揚された山川登美子・増田雅子との合同詩歌集である。 そういう意味では「星菫派」と言われた明星派の代表的なアンソロジーとも言えよう。 晶子・雅子はそれぞれに結婚したが、 登美子は若くして未亡人となり、薄幸の生涯を終え、 雅子は東大教授茅野蕭々夫人として恵まれた人生を過ごし、 夫の死後数日にして世を去った。 この集は、永遠の絶唱 「君死にたまふことなかれ」が収められていることによっても知られている。
(『情熱の歌人「与謝野晶子展」』)
中沢弘光装幀・挿絵

◇『紫』   東京新詩社 明治34(初版)

 鉄幹の代四詩歌集。 詩では「日本を去る歌」のような依然たる慷慨調の長編もあるが、 晶子、登美子との間の心情を、 悲傷味深く表現した恋愛詩に秀作が多い。 「春思」「相思」「山蓼」などがあるが、 とくに「敗荷」が賞されている。 名と恋の帰路に迷う青春象などを写し、浪漫の香りが高い。
(『近代日本文学大事典』講談社)

◇『相聞』(あいぎこえ)  明治書院 明治43(初版)


 鉄幹の単独の歌集として最初のもので、 明治35年から明治42年まで、おもに「明星」後半期の作1000首を集成。 森鴎外の序、高村光太郎の装丁、挿絵。 赤城、阿蘇各登山吟、 山川登美子、伊藤博文各弔歌など、連作をいくつか含み、 ことに後者には激情吐露した中年期に入った男の複雑な心境を歌っており、 象徴的−思想的傾向が著しい。 万葉集や催馬楽など、古典の摂取も見え、 寛の歌風の最も円熟したものが窺える。
(『近代日本文学大事典』講談社)


*本学図書館では「近代詩歌関係資料」与謝野鉄幹、晶子等の詩歌集初版本 及び関係資料を収集しています。詳しくは図書館案内をご覧ください。